環境と犬

アンデス山脈インカトレイル4000mの高地で出会った犬です。白い大型犬は非常に穏やかでゆったりと自然に溶け込みいつまでも同じ姿勢で座り続けていました。二匹の犬たちもはるかかなたの景色をいつまでも見続けていました。飼い主が呼んでも一瞬振り向いただけで再び視線を谷に戻した。大自然に包まれると人も動物もそのパワーに包み込まれ瞑想状態に近い感覚が生じるのではないか。私は瞑想する犬をこの時に初めて見ました。

ペルーの大都会リマの犬たちは塀の中から耳を立てて警戒し自分のテレトリーを守る、警戒、攻撃的なエネルギーを発信しています。二匹の犬は通行人の後をどこまでも追いかけて威嚇していた。

犬たちが集まった写真はリマの高級住宅街のあるミラフローレスという町の公園で出会った何か様子がおかしい犬のグループでレスキュー犬の交換会場だったのです。これらの犬から感じられたのは心身ともにボロボロで、右下のマルチーズは様々な身体的問題があり治療中とのことでしたが、スピリチャル的な助けも求めています。

ペルーの三か所で見た犬たちはそれぞれ独特なエネルギーを発していました。高地に住む犬たちにはテレトリーがなくオープンハートですべてを受け入れ平和・愛のエネルギーに満ち、我々とハートで容易に繋がることができます。都会の犬はテレトリーを持ち、大都会に住む警戒感と人間不信を感じます。レスキュー犬には人間社会のすべての矛盾が凝縮されています。

エゴ、憎悪、怒り、悲しみ、愛のない世界のエネルギーを心身に受けてしまっています。

これら4匹の犬たちはインドのゴアの道端で出会った犬たちですが自愛に満ちたフレンドリー笑顔で話してきます。ゴアは混とんとしたインドの都市ではなくポルトガル文化と融合したソフトな感じのインドで人々は優しく犬たちも優しいエネルギーで満ちている。

飼い主とペットの関係

犬・猫は家庭環境・飼い主のエネルギー状態に大きな影響を受けています。犬は猫よりも飼い主に対して従属性が高いのでより飼い主の感情エネルギーの影響を受けやすい。

ポメラニアンのサリーは食欲不振、下痢(周期的な血便)で診察した。すでに様々な治療を受けているが治らない。サリーはレスキュードッグで折に入れられたまま妊娠し帝王切開で何度も子犬を生産されていた。小さなポメラニアンで弱々しく常に何らかの症状を出していたので引き取った飼い主は子供を抱っこする紐でお腹に抱えていた。飼い主は常にサリーを心配し、グーグルドクターの極端な病名にたどり着き、更に心配が増幅していた。思い悩む感情エネルギーは消化器を直撃し、サリーの症状を引き起こしていた。人間も思い悩み、恋煩いなどでは食欲が無くなるが症状は犬のような極端ではない。

プードルのジョンは13歳の高齢であるが毎日散歩して元気で獣医に一度も受診する必要がなかったが、ある日ご主人に胃がんが見つかりご夫婦で様々な感情を伴う話し合いがなされた。すると翌朝に突然ジョンが原因不明な血便が出て動物病院に入院となった。飼い主の思い悩みの感情エネルギーの直撃を受けたジョンは消化器に重度な症状を出した。

ダックスフントのケリーを抱きかかえたCさんが私の別宅の玄関を叩いた。ケリーの全身の筋肉が固まり立てず・歩けず、水を口元に持っていってやっと飲める状態で、何軒かの病院で全く診断がつかないという。私がケリーを抱いてみると一本の丸太状態であったが、抱きながらマッサージをしていくと次第に強直が解けて筋肉が柔らかくなり数十分後には歩き始めた。筋肉・筋膜を養うのは肝臓、そして肝臓に影響を及ぼす感情は怒りなので。Cさんに最近怒ったことがなかったか聞いたところ、同居していた犬が死んだとき担当した獣医に対して激怒したとのこと。感情エネルギーは方向性を知らない。他人に怒りを発しても一番の悪影響を受けるのは自分であり、身近で飼い主を観ているペット達である。

ペットの犬たちは非常に素直にオープンに飼い主との関係を築いており、飼い主の愛情を全身で受け止めているのです

が、過剰な有害な感情エネルギーも素直に受けてしまいます。動物はそれらの症状を人間よりも強く素直に出してきます。ペットを飼われている方は彼らの異常が家族全体あるいは特定の誰かのエネルギーを反映したものか考え、気づきを得ていくのも必要かなと思われる。また動物は自然界のエネルギーの影響を強く受け、周期的な血便は満月の時に内在する感情エネルギーを外に放出するプロセスで起こっていた。

ペットの遠隔治療を依頼されることがある。遠隔治療はスマートフォンの画面を観ながらリアルタイムで行う。カナダ人の友達の犬、ヤニーが数か月に一回発作を起こすので観てほしいという事で繋がった。ヤニーのエネルギーをキセノン光照射で観ると身体周囲のサトルエナジーフィールドの滞りを強く感じられたのでクレンジングを始めたがなかなか強固であった。ヤニーは飼い主の影響を受けていると感じたので治療対象を飼い主に変更して飼い主のエネルギーフィールドを観るとヤニーのエネルギー状態そのものであった。発作を起こす時の状況を聞いたところ、ストレスが高まってきた時に発作が起こると言う。犬がストレスを高めることはほぼないので、それは飼い主のストレスの鏡としてケリーが発作を起こしている可能性が高い。飼い主のクレンジングを終了させてから再度ヤニーのエネルギーをチェックしたところすっかり不要なエネルギーは消失していた。ペットは人を癒すと言われているが、飼い主と共鳴しているペットが飼い主の過剰なエネルギーを発作として放出している可能性が考えられる。20数匹の保護猫を飼育していた友人の奥さんが癌になった時に三匹が奥さんと同じ癌発生部位に癌が発生して次から次に死んでいったが奥さんは治癒した。

家庭内に同居して住むペット達は飼い主たちのエネルギーと共鳴して生活している。ペットは良くも悪くもそれらのエネルギーにまみれて生活している。ペットは人間に比べて症状を出し易いので家族のエネルギーの写し鏡でもあるといえる。ペットの健康は飼い主がいつも楽しく愛をもってハッピーでいることが重要であると言える。

猫は自分の死期が迫ると家を出ていくという事をよく聞くし、実際に身近なところでも弱った猫がいなくなっている。犬に関する興味深い書籍があるので紹介する。

犬の聖地 (アースダイバー 神社編 中沢新一)

私は長いこと「聖地」というような考えは、人間にしかないものと思い込んでいた。しかし十数年前にチベットを旅行したとき、犬にも聖地の感覚があるらしいということを知って、あらためて生き物にとって聖地とはなにかということを深く考えるようになった。 そのとき私は早朝にサムエ寺という古いお寺を出発して、山奥のチンプーという聖地に向かって山登りを始めた。モンスーン期だったため川は水かさを増していて、いつもなら聖地の近くまで人を運んでくれる耕運機のタクシーも、その日は動いていなかった。 そこで私は裸足になって川を渡ったり、薄い空気に苦しみながら急坂をよじ登ったりしながら、ようよう厳の林立する聖地の近くまでやってきた。 そこで道が二つに分かれていた。広いほうの道を行けばよいものを、私はなぜか狭いほうの道を選んだ。そのほうが直登で、早く聖地にたどり着くと判断したからだ。 「アースダイバー」などと自称しているものの、私は格別に方向感覚が悪い。直感にしたがって進んでいると、いつかとんでもない方角をめざしていた、などということもしばしばである。そのときも、細道を進みはじめてからしばらくして、またやってしまったと気づいた。道はどんどん細くなり、そのうち獣道になった。引き返さなくてはと理性は命じた。ところが私の体は理性の声を無視して、ずんずんと獣道の奥へ奥へと進んでいくのである。

灌木の茂みを抜けていくと、足元を水が流れるようになった。歩くごとに水量は増していって、小川のようになった。不安にかられた私は、必死になって茂みをかき分けて進み、ようやく小さな空き地に出た。私の両足は川床の斜面に食い込んでいた。流れる水は清らかで、水底まではっきり見通せた。その水底を見て、私は息を呑んだ。 私は水中に何匹もの犬の死体があるのを見た。犬の体は冷たい流水の中で白蠟化していたのでまるでどの犬も生きているようだった。私が水中から足を引き抜くと、それにつれて犬の体も水中でゆらゆらと揺れた。ゆっくりまわりを見回してみてびっくりした。 最初に目についた犬たちの死体を取り囲むように、何十、何百という白蠟化した犬の死が、体をそろえるようにして、水中に沈んでいたのである。 犬たちは皆思い思いのポーズをしていたが、きまったように頭は山頂の方向に向けて横たわっていた。私は犬たちの「死に処」に迷い込んでいたのである。 小さい頃、飼っていた何匹もの猫が自分の死期が近づくと、すーとどこかへ姿を消してそのままいなくなってしまうのを、何度も体験していた。しかし犬にもそういう場所があるのだということを、私ははじめて知った。この墓場は、麓の村からは十キロ近くの山道を歩かなければたどり着けない場所にある。村で飼われていた犬が、自分の死の近いのを感づいて、ひとりぼっちで山道を登っていく。そしてこの死に処にたどり着いて、すでに穏やかにそこにやすらっている他の犬たちのそばに自分の体を横たえて、静かに死の訪れを待つのであろう。私はあまりに荘厳な光景に打たれて、長いことその場に立ち尽くした。

それはまさに「犬の聖地」であった。犬たちは村の中で母犬の体から生まれてきた。 しかし十年間ほどをこの世で生活して体験を重ねたあと、死ぬときは村から遠く離れた特別な場所に行って、他の犬たちといっしょの場所であの世への旅立ちをするのだ。彼らの本能が、聖なる山の山腹にある、犬の聖地と定められた場所まで来て、死ぬことを求めたのであろう。大たちは人間のような宗教は持たないが、自分たちにとっての特別な場所、聖地のありかを知っている。 どれほど時間がたっただろうか。ようやく我に返った私は、犬の聖地を名残惜しくもあとにして、山上にある人間の聖地をめざしてまた歩き出した。歩きながら私は学生時代の友人が語っていた言葉を思い出していた。宗教学を学んでいた私は、聖地というものに深い関心を抱いていた。さまざまな宗教の聖地を旅するのも好きだったし、そこに何日も滞在して巡礼にやってくる人たちと話をするのも好きだった。しかし人間の文化の研究をしているつもりの私は、聖地というものは、人間だけの思いつく文化現象であると思い込んでいた。 犬にも聖地の感覚があると知っても、驚かない人間になっていた。犬に働きかけているその感覚は、おそらく人間が特別な場所に尋常ならざるものを感じて、そこを特別な聖地としたときにも働いていたものと、よく似ているにちがいない。聖地の感覚は、生き物の生命活動のきわめて深い場所にセットされている様子だが、人間にとっての聖地もまたそうなのではないか。人間はホモサピエンス、すなわち「知性をもった人類」である。聖地はこのサピエンス=知性が発動する、精神のきわめて深い場所にわき起こる感覚につながっている。

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